エジプト博物館Yアーカイブ

エジプト博物館Y

考古学者の吉村作治氏がお送りする『エジプト博物館』。第6シーズンのテーマは「古代エジプトに学べ!」
政治・経済をはじめ、文化や芸術、学問、そして、身近な衣食住にいたるまで、現代文明の原点はほとんど、古代エジプトにあるといわれている。
現代人は今、古代エジプトに何を学ぶのか、エジプト5000年の歴史は我々に何をもたらしてくれたのかを吉村教授の解説とともに、あらためて見直していく。

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第1章 何を学ぶのか

「エジプト博物館VI」のテーマは「古代エジプトに学べ!」古代エジプトの歴史、文化などから現代人は何を学ぶのか?
第1回 「エジプトとはI 地理」

エジプトは南北1300キロメートル、面積は100万キロ平方メートルで日本の約3倍。
95パーセントは砂漠で、人口は6000万人。中央をナイル川が流れ、その周囲は耕作地で農業中心。また、上エジプトと下エジプトに分かれている。

第2回 「エジプトとはII 歴史」

古代王朝時代からプトレマイオス時代までの約5000年、ファラオ独裁政治であった。
ピラミッドや神殿、王墓など多くの建造物を造られた。

第3回 「エジプト研究史」

ナポレオンのエジプト遠征以降、約200年で5000人以上のエジプト学者が出た。
はじめは盗掘から始まったエジプト学者も、今は科学的である。エジプト研究の歴史を辿る。

第4回 「エジプトから何が学べるか」

古代エジプト時代は、現在の文明の基礎を作り、すでにそのほとんどが使われていた。
その中に古代エジプト人の発見があり、それを学ぶことが重要である。古代エジプトからどのようなことが学べるのだろうか。

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第2章 古代エジプトの食文化

古代エジプト人はパンを食べ、ビールやワインなども楽しんでいたなど、その食生活にはすでに現代に通じるものがあった。この他にどのような食生活を送り、どのようなものを食べていたのか、そして、それらの食材をどのようにして得ていたのか。また、壁画に残された食事の風景などから、食事のマナーについても探ってゆく。
第1回 「食生活」

農耕、牧畜、漁業が国民の中心。狩猟はスポーツだが、食材の調達のためだった。
貴族、王族は贅沢をしていて、毎日が宴会。エジプトの食文化はエーゲ海、ギリシア、ローマと伝わり、現在のフランス料理の元となっている。

第2回 「食材I」

にんにく、たまねぎ、ラディッシュ、豆類、葉もの、小麦など野菜が豊富に使われた。
たまねぎは場面によって好まれたり、避けられたりと二面性があったといわれている。

第3回 「食材II」

肉類は、鳥(にわとりは観賞用)、魚、牛(高級ステーキ)。羊、豚はあまり例がない。
羊は神聖、豚は不吉(悪)とされていた。牛や鳥などの家畜化を試みて成功したのは、初期王朝時代から古王国時代にかけてであった。

第4回 「食のマナー」

テーブルではなく各人のお膳でビュッフェ方式。パーティーはサービス係が持ち廻った。
香油袋を頭にのせ、座る。(香油は、体温で少しずつ溶け出し香りを漂わせた)音楽、踊りがあり、1日朝食と夕食の2食。酔っ払う人もいた。

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第3章 古代エジプトの住まい

古代エジプトでは王や貴族、庶民がそれぞれの暮らしにあった家に住んでいた。また、王の住まい(王宮)には現代に通じるようなインテリア・デザインが施されていた。
数少ない遺跡などをもとに、古代エジプト人の住居の構造や生活の様子などを紹介する。
第1回 「王さまの住まい」

王を表わす「ファラオ」の語源「ベルアー」は、大きな家に住む人という意味である。
王の住まいである王宮は時代と共にこわされ、現在では5例しか残されていない。早大隊が発掘したルクソール西岸のマルカタ王宮には、私邸と政治を行う公の場所がある。公の場はとてつもなく大きく、私邸もそれなりの機能をもっている。

第2回 「貴族の住まい」

テル・アル=アマルナには貴族の住居跡があるが、ほかに残されているものは少ない。
多くの邸宅には中庭をはじめ、左右の部屋には客人用や居間食堂があり、寝室は入り口と対面した棟にある。台所や倉庫は別棟、周りは堀で囲われている。

第3回 「庶民の住まい」

庶民の住まいは小さく、寝室とそれ以外の2間ぐらい。家畜をおくための庭があった。
居間・台所・食堂は兼用で、部屋の外にベンチがあり、男達はそれに座って話したりお茶を飲んだりしていた。

第4回 「インテリア・デザイン」

王や貴族の家は、室内の壁に絵で装飾され、天井にもデザインが施されていた。
植物文や一家の主を守るタカやワシが羽根を伸ばしている天井画が描かれ、窓は、木のトビラ(ブラインド型)で色がついている。職人の家などには2階があり、寝室となっている。居間、客間の床にも絵が描かれていて、後のモザイク床となる原型となった。

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第4章 古代エジプトのファッション

壁画などやレリーフなどを見れば、古代エジプトの人々がどのようなものを着ていたのかを知ることができる。彼らは麻や羊毛などから生地をつくり、すでにアクセサリーや、染色、刺繍などといった装飾も行っていた。
第1回 「衣服の材料と作り方」

衣装は基本的に麻、羊毛でプトレマイオス朝時代に綿が入った。
中王国時代の墓に機織り工房の模型が、新王国時代には機織り工房の壁画が残っています。機織りも仕立ても女性の仕事。針は青銅や骨で、布は食物染料で染めていた。染める色は多彩で単色からぼかしまであり、刺繍やパッチワークなどもあった。

第2回 「男性のファッション」

正式なファッションはキルト(腰布)だけ。新王国時代になるとパンツをはいていた。
広い布を折り畳んで肩からかけ、キルトにヒダをつけ糊をきかせてピチンとしていました。キルトの前に幅広の布を下げていたが、これはペニス保護の名残りである。神官は、ヒョウの毛皮を肩から下げていた。

第3回 「女性のファッション」

女性は基本的には家の中にいて、腰布だけ。宴会や謁見のときは全身を覆う。
乳房の下から足のくるぶしまでのロングスカートは肩から吊り(乳房を隠す)、その上にローブやショールを掛ける。色は白で、夕方、朝方は長袖のガウンを着け、時にはビーズで作ったスケスケファッションもあった。時代による流行はない。

第4回 「ファッションにまつわる話」

サンダルは、水草で編んだもの、革製で刺繍がついているものや金のものもあった。
アクセサリーの材料は主にファイアンス、石、金。髪型は女性はお下げが標準で、3つに分け、ひとつは後ろにたらし、二つは左右に分け、胸の辺りまでたらしていた。ポニーテールやリボンなどもあったがほとんどがカツラで、そのために地毛は短く切っていた。

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第5章 古代エジプトの娯楽

古代エジプトにはどのような娯楽があったのだろうか?
古代エジプトの人々も現代の我々と同じように、さまざまな娯楽を楽しんでいた。スポーツも音楽も、また、ゲームなどにも現代の娯楽のルーツとなるようなものがすでにあったという。
第1回 「スポーツ」

古代エジプトには野球やサッカー、フェンシングやレスリング、水泳などがあった。
中王国時代は球を使ったものが多く、新王国時代は狩りが中心だった。そして、基本的には男性がするものであった。

第2回 「音楽」

外国の使節が来ても、エジプト各地から王に謁見に来ても、音楽を奏でていた。
楽器は、フルート、クラリネット、トランペット、ハープ、太鼓、タンバリンなどがあり、祭りの時も儀式の時も凱旋の時も楽隊が出ていた。音楽は宴会には特に欠かせないものであった。

第3回 「ゲームや遊び」

古代エジプトではゲーム盤は、500年前からあった。
将棋や碁のような"セネト"というゲームが好まれていた。19王朝ラムセス2世の王妃、ネフェルタリ墓には、セネトをやっている画があり、カイロ博物館にはツタンカーメンのセネトのゲーム盤が残されている。

第4回 「宴会」

サンダルは、水草で編んだもの、革製で刺繍がついているものや金のものもあった。
アクセサリーの材料は主にファイアンス、石、金。髪型は女性はお下げが標準で、3つに分け、ひとつは後ろにたらし、二つは左右に分け、胸の辺りまでたらしていた。ポニーテールやリボンなどもあったがほとんどがカツラで、そのために地毛は短く切っていた。

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第6章 古代エジプトの教育

古代エジプトは文字文化である。ヒエログリフという文字を使っていたことは広く知られている。古代エジプト人は学校で文字の読み書きを習い、卒業後には医者や書記といった専門職についていた。教員は教育省の役人がなっていたが、その指導はなかなか厳しかったようである。
第1回 「文字」

古代エジプトはヒエログリフ、ヒエラティック、デモティックの3種の文字を使っていた。
起源的には象形文字。特徴は、音がなく意味だけを表す決定詞という文字があり、同音異議語が区別できるようになっている。この他にコプト語があり、古代エジプト語の音をギリシア文字で表記した。ヒエログリフは、1822年にフランスのシャンポリオンによって解読された。

第2回 「書記」

書記は一番重要な職業で、広く『高級な役人』という意味がある。インテリ階級では憧れの職業。すなわち、王族や貴族、上流階級の子弟が多かった。古代エジプトでは、文字が読み書きできる人は大人(たいじん)と呼ばれ、尊敬されており、書記はその頂点であった。彼らは、納税された穀物の量のリストをつくり全国の備蓄量を把握するだけではなく、個人の手紙の代筆なども行っていた。

第3回 「学校」

学校は誰でも入学できたが、入学試験があり、かなり難関であった。まず、文字の読み書き、算数を教えられ、それを卒業すると、書記、医者、建築家、徴税、神事、士官(軍事)など専門課程にわかれ学習し、政府の要職に就いた。学校の年限は決まっておらず、卒業するには良い点が必要だった。

第4回 「教育システム」

教員は教育省の役人がなり、厳しく指導していた。教師の命に背けばむち打ちもあった。教員はいつも棒を持ち、逃げようとするとひもで脚を結んでいた。教科書もしっかりとしていて今でも残されている。

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第7章 古代エジプトの恋愛と結婚

古代エジプトでも、現代の我々と同様に男女が恋愛をし、結婚をして家庭を営んでいた。しかし、その思いは今の我々とは違いがあるようだ。彼らの恋愛や結婚への価値観や時代背景などを探っていく。
第1回 「女性の一生」

古代エジプトでは男性が外、女性が内、と仕事を分業した。
それは女性が子どもを産み、子どもを育てる能力を生かすため。生まれてから死ぬまで、女性には男性とは違う生き方があった。それが幸せか不幸せかと考えるようになったのは現代になってからのことである。

第2回 「恋愛」

女性は良き子孫を持ちたいために、能力的にも社会的にも良い遺伝子が欲しいと願う。そのため良いと思う男性に近づくのだが、古代エジプトではそれがかなわず、結婚は家柄で決められていた。

第3回 「結婚」

現代は大多数がイスラム教のため、一夫四妻制。古代では一夫一妻制が多数であった。
結婚の第一目的は家と家との結びつきであった。

第4回 「出産」

古代エジプトでは毎年子供ができる女性も少なくなく、女性の方が早死だった。
王家では、子どもは乳母が育てていた。

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第8章 古代エジプトの家庭と家族

古代エジプトでは、社会の一番小さな単位が家族である。人々は皆、家庭に属して生活していた。家庭の中で彼らはどのような関係を築き、それぞれにどのような役割を果たしていたのだろうか。
第1回 「家庭」

古代エジプトでは、社会の一番小さな単位が家族で、血族の集団が部族です。それが集まって村が、そして街ができ、ノモス(州)となって、ノモスの集合体が国です。よって、どんな人でも必ず家庭に所属しています。エジプトでは、大家族制は今でも続いています。

第2回 「夫婦」

家庭の中心は、父親です。これは狩猟社会の名残りです。しかし、家庭の内部は母親が中心です。父親は外で稼ぎ、母親は子を産み育てる、と仕事分担が別れています。夫婦は、一族の中で父親同士が決めます。そしてよほどのことがなければ一生連れ合います。

第3回 「親子」

親子は、絶対的に父親の力が強いのです。父親の許しが出なければ、子どもは何もできません。しかし成人(15歳くらい)し、家庭を持てば、自分の自由になります。その日にむけて、父親母親のやり方をじっと見ています。子どもが犯罪を犯すと、一家が責任を取らされます。

第4回 「家柄」

家柄は、時代によって変わります。基本的には、ファラオの家族が王族、その友人や知人が貴族(土地所有者)、そして知識階級(医者、役人、教師、将校、神官)が家柄の良い人で、これらが国を動かしています。しかし、士農工商のような階級はありません。

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第9章 古代エジプトの医学と医術

古代エジプトの医学はロゼッタストーンやパピルスに記述が残されており、現代医学に通じるほど、優れたものであった。彼らはどのようにして医者になり、どのような診察や治療をしていたのだろうか。
第1回 「病気と治療」

病気の原因は悪魔によるものといわれ、治療は悪魔を排除することであった。
呪文や護符、悪魔払いをして予防に力を入れていた。天寿をまっとうしあの世に行くことが理想と考えており、病気になることは悪魔によってはばまれることであった。

第2回 「呪術」

病気の原因は悪魔の仕業ということで、悪魔封じや呪術による悪魔払いがなされた。
特に内科的な身体内の病気については、この療法が中心に行われていた。手術などの場合、施術は科学的だったが、失敗しないように祈祷もしていた。

第3回 「医学パピルス」

医学パピルスは10種類以上あり、そのうちのいくつかが現在も残されている。
特に外科手術道具や外科的手当は、現在にも通じるというところがある。また、各パピルスには病気の症状とその治療法が記されていて、これが医者の教科書であったことが分かる。

第4回 「医者」 

大きく分けて内科医、外科医、産婦人科医があり、近代的な医学の起源となっている。
その他眼科、耳鼻科、小児科など細分化されていた。それらの知識は、ミイラづくりから得た人体の知識が生かされていた。

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第10章 古代エジプトの農業

古代エジプトでは全人口の99%が農民であった。彼らは日の出と共に農地へ出向き、日の入り共に家に帰るという生活を送っていた、農地はすべてファラオのもの。農民達はその農地で麦やにんにく、たまねぎといった野菜や果物などを作り、収穫の50%を税として納めていた。
第1回 「農地」

全ての国土はファラオのもので、その地域の有力者や部族、友人たちに所有権を独占的に貸します。この人たちは貴族です(中世ヨーロッパ荘園領主)。その土地から収穫される収穫物、麦類は、耕地貸料、すなわち税として50%を納めさせます。貴族が25%、農民が25%。王領とか神殿領といった直轄的な土地もあります。また、種は王が税の中から種播きの時分け与えます。ちなみに、ナイル周辺の土地は7月から10月の間(ナイル季)ナイル川の氾濫で水浸しになります。そこで今回は、古代エジプトの農地ついてお話していただきます。

第2回 「農民」

農民は全人口の99%(ピラミッド時代で約297万人)で、全ての農民は土地についています。旅行はピラミッド等公共事業の時と女性が嫁入りの時。農民の1日は、日の出とともに農地へ、日の入りとともに家に帰ります。中心は男が畑仕事、女が家事と育児。子どもは雑草取り、落ち穂拾いです。そこで今回は農民についてお話していただきます。

第3回 「作物」

中心的な作物は麦類で大麦、小麦。小麦はエンマ小麦といって原種です。パン、ビール等に加工します。その他にニンニク、タマネギ、キュウリ、果実(ウリ、イチジク、オリーブ、ブドウ)があります。麻(亜麻)が衣料材料です。税金は現物で納めるため、王宮の3分の2は倉庫で、給料も現物支給です。野菜、果物は自分用のものとして作れます。倉庫には、監視員がいました。そこで今回は、農作物についてお話していただきます。

第4回 「灌漑」 

ナイル川は1年に1回、4か月(7月から10月)氾濫します。ただし、ダムや堤防は作りません。理由は、ナイル川の水は神(イシス、クヌム、ハピ)だからです。ファユームの開拓中王国(BC2000年ごろ)から、ため池のようなものを砂漠のヘリに作り、水を溜め、農耕用として利用(ベースンシステム)していました。また、運河(灌漑用)を作り、水の供給、排水として使用、ナイル川に流れ込み地中海へ。砂漠地帯は伏流水をつなげ、井戸、泉として利用しました。
そこで今回は、灌漑についてお話していただきます。

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第11章 古代エジプトの交通と運輸

古代エジプトの交通のほとんどはナイル川を使って行われていた。彼らはナイル川でどのような交通手段を使い、どのように移動をしていたのか。また、外国との交易の様子などについても探ってゆく。
第1回 「ナイル川」

古代エジプトでは、交通はほとんどナイル川を使っていた。陸路を使用するのは非常に近距離の場合のみに限られていた。ナイル川は南北に流れていて、南が上流なので、川の流れにのれば南から北へ移動できる。また、風は北から南へ吹いているので、帆を張れば、北から南へ移動できる。そういう意味でも、ナイル川は恵みの川であった。

第2回 「船と港」

古代エジプトには42のノモス(日本の県のようなもの)があり、各ノモスはすべてナイル川に面して、そこは港になっていた。港は、関所であり、通行手形(パスポート)をもっていない人は通れなかった。船はフェリーのようになっており、大きな荷物や動物ものせることができた。

第3回 「交易」

交易は広範囲にわたり、南はアスワンから北は地中海に面した町まで、その距離1300qもあった。物産の交易は、各地からピラミッド周辺や都に集められるが、毎回決まった日に市がたつ。また、外国との交易も盛んで、南はアフリカ、北はレバント地域、ギリシア、エーゲ海、東はシナイ半島、アラビア半島、西はリビアと広い地域との交易品が集まった。

第4回 「巡礼」 

ナイル川の交通で最も重要なのはアビドス巡礼であった。人々は一生に一度巡礼をすることであの世へ行く約束ができる。すべての巡礼の起源である。アビドスは冥界の王オシリス神に会い、あの世行きの約束を取りつける。アビドス巡礼は船で行った。

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第12章 古代エジプトの戦争

古代エジプトの戦争は商行為や国の防衛のためになされた。彼らは軍隊を持ち、その軍隊は司令官、隊長、兵士といった兵度がすでに整備されていた。彼らの戦いぶりや数々の武器などから古代エジプトの戦争についてみてゆく。
第1回 「軍隊」

戦争は何のためにするのか?ひとつは商行為、つぎに国の防衛。そして、主義主張。
そのためには軍隊が必要とされる。軍隊は攻撃と防衛のふたつで構成され、司令官の下、軍団長、隊長、兵士と、階級がきちんと分けられていた。

第2回 「九弓の民」

九弓の民とは、外国人のこと。古代エジプトの周辺の国を9つに分けたためである。
代表的な外国として、南のヌビア、北のオリエント(ヒッタイト、バビロニア、ミタンニ等)、エーゲ海の国々(ミノワ、ロードス)、西のリビア、東のアラビアがある。

第3回 「武器」

鉄砲をはじめとする機銃のような近代武器以外、すでにあらゆる武器が存在していた。
兵士個々のものとしては、刀、鎗、盾、弓矢などがあり、他に大掛かりなものとしては、チャリオット(戦車)や軍船、投石機などがあった。

第4回 「解放戦争」

中王国末期にヒクソスという西アジアの遊牧民にデルタ地帯を占領された。
しかし、それをワセトの豪族セケネンラーが攻撃し、ヒクソスを放り出してエジプト追放を成し遂げた。

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第13章 古代エジプトのミイラ

ミイラはなぜ作られたのだろう?そのつくり方は?誰もが知っている、エジプトのミイラについて、あらためて迫ってみよう。
第1回 「ミイラとは」

ミイラとは、古代エジプト人が来世から魂(バー)が戻っていた時の容れ物として、保存してある人体を言う。エジプト以外にもミイラ状の遺体はみつかっているが、来世観と関連しているのは古代エジプトのみである。ミイラとは防腐剤「ミルラ」からきている。

第2回 「何故ミイラを作ったか」

古代エジプト人は、この世で死んでも悪いことさえしていなければ、魂の復活があると信じていた。そして、1年に一度この世に子孫と会うために戻ってくる。その時の容れ物として、肉体を保存しておくために死体をミイラとした。

第3回 「ミイラになる人とは」

ミイラには、誰でもがなれるわけではなく、国民の99%を占める農民は水葬されていた。そして貴族、王族、富豪などに限定されていた。墓を作り、あの世への土産を用意し、そして自らの遺体をミイラにするなど、かなりのお金がかかった。

第4回 「ミイラの作り方」 

ミイラにするにはまず身体の中から臓器を取り出し、水洗いし塩化ナトリウムをまぶして水分を抜く。そして、乾燥して防腐剤を塗り、包帯でくるみます。その後で、御棺に納めます。

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第14章 古代エジプトの葬送

なぜエジプトでは、人が死ぬとミイラにしていたのだろうか?そこには古代エジプト特有の死生観があった。そしてその死生観に基づいてさまざまな儀式が行われていたのである。
第1回 「葬送の意味」

あの世とこの世、人の世界と神の世界の存在を信じていた古代エジプト人は、この世で死んだ後、あの世に行くことを願い、色々な儀式を行った。葬送とは人間から魂が抜け、鳥の姿となってあの世に行く儀式のことである。

第2回 「葬送の手順」

人間が死ぬとミイラ師の館に行き、ミイラにされる。この間70日。70日目に墓の前にてお葬式をする。その後墓の中に木棺に入れたミイラを収納して墓の入り口を閉じる。このため生前から墓、棺、ミイラ師の予約をしておかないといけなかったのである。

第3回 「口開けの儀式」

葬式の最大のイベントは、墓前にてミイラを立てて行う口開けの儀式である。人間は、いったん死ぬと、すべての外界との接点である身体の開口部(眼、鼻、耳、口、肛門など)が塞がれると考えられていたので、この儀式で再びその口を開け、あの世で使えるようにした。

第4回 「最後の審判」 

死して70日後、この世の出口、あの世の入り口にて最後の審判が行われる。これは被葬者があの世に行く権利があるかを審判するためで、1.罪を犯していない自らの告白、と2.天秤の儀式、である。これを通過するとあの世へ行くことができる。

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第15章 古代エジプトの墓

古代エジプト人は、人は死ぬとあの世に行き、1年に1回この世に戻ると考えていた。
第1回 「墓を造る意味」

古代エジプト人が墓を造る意味は、その生死観というか、来世観からきています。人は死ぬとあの世に行き、そして、1年に1回この世に戻ると考えていました。古代エジプト人は、その中継として墓を考えていました。ですから、墓を造ることはとても大切だったのです。

第2回 「墓造り人たち」

墓は古代エジプトの人たちにとって、一生で一番大切なものでしたから、成人し家を持つと、すぐに墓を造る人に墓を依頼します。依頼された人は、そのデザインから大きさ、形式を依頼人と打合せ、墓造りをします。その期間は、短くとも3年、長いのは10年以上かかりました。

第3回 「墓の中に入れるもの」

墓の中には生前生活でつかっていた衣服、アクセサリー、家具、道具などすべてのものを入れ、それをあの世に持っていきました。また、その以外にあの世の住人や神様への贈り物も入れました。

第4回 「お墓参りの日」 

1年に一回、生きている人(残されていた人たち、遺族)は、決められた日にお墓に集まり、亡くなった祖先たちを供養します。そこでは、食べ物、飲み物を持ち込んで、乳香を焚き、亡き人の想い出話をします。

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第16章 古代エジプトの職人

第1回 「どんな職業があったのか」

現在ある職業で、科学技術を使ったもの以外は何でもありました。ただし、上級職と普通職があり、国民の99%は農民でした。上級職は、役人、神官、医者、軍人などで、普通職は手工業(大工、織工、土器造り、墓造りなど)、商人、各上級職の下働きなどでした。

第2回 「職人の育成」

職人は普通、学校には行かず、子どものときから親方について仕事の仕方を習います。通常住み込みで、一人前になると親方となって、仕事を分けてもらったりします。

第3回 「職人の目指すこと」

職人の目標は、自分の仕事のエキスパートになり、親方となってのれん分けをしてもらうことでした。6、7歳頃からでっち奉公として職業集団に入り、住み込みで訓練を受けます。

第4回 「職人の生活」 

職人は、朝、太陽が東に昇るときに起き、仕事場に入り、一日中仕事をします。仕事は日が沈む頃終わりで、就寝。食事は一日二回。10時ごろと17時ごろ。日常的なこともそれぞれが分担してやります。

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第17章 古代エジプトの神々

第1回 「神とは何か」

神は、人間の能力をはるかに超えた存在です。よって超人的存在と言われています。その力は、どんな人間にも与えられていません。これは、人間が自分ではどうにもできないこと、地震、津波、火山爆発など、に対する畏れを鎮めてもらうための存在でもあります。そういうことで、神は自然のなかに存在しているのです。

第2回 「神々の世界」

人知を超えた存在の神々はどこに済んでいるかを最も古く真剣に考え、結論を出したのが、古代エジプト文明を作った人々で、その場所をあの世としました。

第3回 「どんな神があったのか」

神々はいろいろな形でこの世(人間の住んでいるところ)に存在しています。太陽、月、木、森、海、川、花、風、など形だけでなく現象もそうです。それらはすべて独特の力を持っていて、人間に影響を与えています。古代エジプトでは、太陽は、ラーというように、ひとつひとつ名前を付けていました。

第4回 「神々の役割」 

神々は人間を助けるだけでなく、人間が誤ったことをしていますと、災害をもたらし、人間をいさめます。それをなくすため、人間はいろいろな形でお祈りをしたり、接待したりします。

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第18章 古代エジプトのピラミッド

古代エジプト時代にはピラミッドを「メル(昇る)」と呼び、それぞれに固有名詞(多くは建造した王の名前)が付けられていた。形は太陽神ラーを主神としているオンという街の中央にあった"原初の丘"が起源で、ラーの霊が存在していたと考えていた。
第1回 「ピラミッドとは何か」

世界的にピラミッドと呼ばれている建造物はたくさんありますが、古代エジプト時代にはピラミッドをピラミッドとは呼んでいませんでした。「メル(昇る)」と呼び、ひとつひとつに固有名詞(多くは建造した王の名前)が付けられていました。あのような形は太陽神ラーを主神としているオンという街の中央にあった原初の丘  (ベンベン)が起源で、ラーの霊(カルト)が存在していたと考えていました。

第2回 「ピラミッドの造り方」

ピラミッドの造り方は諸説ありますが、直線式のランプ(傾斜路)、うずまき型、いろは坂型の三つに集約されます。300万個を積んで25年程度で造るには、効率からいって、直線式で何直線も造らないとできないでしょう。

第3回 「ピラミッドの謎」

ピラミッドには多くの謎があります。というのも、ピラミッドにつきましては、今のところ全く文書による記述がありません。ピラミッドテキストというものがありますが、そこには王と来世のことしか書いてありません。数ある謎のうち、最も重要なのは「建設目的」でしょう。しかし、これもぴたっとしたものがなく、多くは理にかなっていません

第4回 「ピラミッド時代のエジプト」 

何故、古代エジプトの時代、統一されてから300年経ってピラミッドを造るようになったのであろうか。それには、ジェセル王の宰相イムヘテプがいたからで、その発想の原点はシュメールのジグラット。それをエジプト古来の太陽信仰に合わせたのがクフ王の宰相ヘムオンです。その違いは、星の信仰と太陽の信仰です。

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第19章 古代エジプトの宴会

宴会好きだった古代エジプト人。墓の中の壁画には必ず得宴会の図が描かれていて、その場の雰囲気が伝わってくる。ファラオは日時を決めて宴会を開いており、外国からの客には必ずパーティーを開き、もてなしをしていていたという。
第1回 「古代エジプトの宴会」

古代エジプト人は宴会が好きでした。その証拠に墓の中の壁画には必ず得宴会の図が描かれていて、その場の雰囲気が伝わってきます。ファラオは日を決めて宴会を開いていましたし、外国からの客には必ずパーティーを開き、おもてなしをしていました。

第2回 「宴会に出席した人たち」

宴会に出席する人たちは主催する人によって違いますが、おおむね王族貴族や高位の役人で、毎日のように開かれていたので、今日呼ばれた人たちは明日も呼ぶ人になっていました。宴会を通して貴族や王族に派閥ができ、王位継承にも大きな力を持つようになっていきました。

第3回 「宴会料理」

古代エジプトの食生活は、普段から質素なもので、朝はパンと牛乳とかハーブティーをとり、昼食はなく、午後三時頃から夕食を摂りました。この夕食はほとんどが宴会で、今で言うビュッフェスタイルでした。ただし、自分が取りにいくのではなく、サービスの女性がもってきました。メインは牛か羊、鴨などのロースト、野菜サラダ、野菜を煮込んだもの、魚のフライ、そして果物。飲み物は主にビールでした。

第4回 「宴会で行われていたこと」 

宴会は三々五々、招待された人が集まり、会場では音楽が楽団によって演奏され、宴もたけなわになってくると、踊り子が出て踊りました。人々は地面に引かれたゴザに座り、一人一人の小テーブルに皿とカップがあった。踊り子は人々の間をまわり、刺激したりすることもあったようです。

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第20章 古代エジプトのビールとワイン

古代エジプトでは、メソポタミアと並んでビールとワインを、紀元前3000年以上前から作って飲んでいた。今回は古代エジプトでのビールやワインの造り方、更に当時の居酒屋事情などについて触れる。
第1回 「古代エジプトのビールとワイン」

古代エジプトでは、メソポタミアと並んでビールとワインを紀元前3000年以上前から作って、人々は飲んでいました。ワインは王様と大臣クラスの人々が、そして、ビールは全ての人々が1日の疲れを癒すために飲んでいました。この他にデーツやはちみつなどを原料にしたアルコールもありました。

第2回 「ビールの造り方」

古代エジプトのビールは現在のものとは違い、ホップなど添加物は使っていませんでした。原料は、小麦・大麦のパンで、スターターにデーツやぶどうの菌を使っていました。ビールは誰もが自宅で造り、宴会で飲んでいました。

第3回 「ワインの造り方」

古代エジプトのワインの造り方は、ほぼ現在と同じでした。ブドウ園のわきにワイン造りの家があり、管理は王宮のワイン係がやっていました。ワインは貴重なものでしたから、普通の人は飲むチャンスはありませんでした。

第4回 「居酒屋」 

古代エジプトでは貴族や王、大臣、神官などは自宅のパーティーでビールやワインを飲むことができましたが、庶民は居酒屋で飲むことが多かったようです。居酒屋にはサービスの女性が接待してくれました。そこではけんかや口論も多く、飲み過ぎて暴れた人は警察に入れられました。

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第21章 古代エジプトの外国との交易

古代エジプトにおける外国とはどんなものがあり、交易はどんな形式をとっていたのか?輸出・入品はどんな物があったのか?など、当時の外国との貿易を解説していく。
第1回 「古代エジプトにおける外国とは」

古代エジプト時代には、国という概念はなく、ナイル川周辺に住む人々をエジプト人と呼んでいました。作物ができるところが人の住めるところと考え、そこをケメトと呼び、砂漠をデシェレトと呼び、その向こうが外国でした。外国人のことを九弓の民と呼び、エジプトに歯向う者という意味です。

第2回 「交易の形」

基本的には戦争というのは武力を使った交易ですが、エジプトは特別な時代を除いて、外国と戦うことはなく、偉大なるエジプト王への朝貢が中心でした。そのお返しに、エジプトは物をあげました。新王国時代になると、西アジアレバントのビブロスに直営の交易所を作り、交易を行いました。

第3回 「交易品(1)輸出品」

エジプトの輸出品の第一は、パピルスです。パピルスは紙のことですが、中国のすき紙が入るまで、オリエントでは貴重品でした。その他、麻布、アクセサリー、麦などの農産品、手工芸品、家具などの木製品がありました。

第4回 「交易品(2)輸入品」 

輸入品のトップは、ミルラ(乳香)。これは、ミイラを作る時、防腐剤として不可欠な物。トルコ石、ラピスラズリーなどの宝石の原石。銅などの鉱物。ブドウ酒。新王国時代は馬や鶏、末期王朝時代はラクダなど。

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第22章 古代エジプトのパピルス

パピルスとはナイル川流域に自制する草で、エジプトでは紙として5000年も前から使っていた。紙の「ペーパー」もこれが起源である。その後中国からのすき紙の流通により需要がなくなってしまい、20世紀に復元するまでなくなってしまたパピルスのことを今回は掘り下げる。
第1回 「パピルスとは」

パピルスとはナイル川流域に自制する草です。カヤツリグサ科の大型水草ですが、南米のチチカカ湖のトトラと同じカヤツリグサ科の草で、食用、建築用など多方面で使われています。エジプトではこの草の茎を取り、薄くそいで、縦と横に組み合わせ、圧力を加え紙として5000年も前から使っていました。紙の「ペーパー」はこれが起源です。

第2回 「パピルス学」

パピルス学とは、パピルスを紙として使った書物を研究する学問です。バイブルは、パピルスをエジプトからオリエントへの交易品として、レバント地方のビブロスで売り買いされていたため、使われるようになった用語です。書物に「ビブロ」という言葉がつくのはこのためです。パピルスそのものが古代エジプトの女神イシスを表し、殺された夫オシリス神を探した時に使った舟もパピルスで作られていて、それが悪から守ったとされています。

第3回 「パピルス文学」

古代エジプトでは文書は陶片(オストラカ)、粘板、石片、墓の壁面などにヒエログリフで書かれ、さまざまな記録が残っていますが、一番多く残っているのはパピルス紙に書かれたものです。死者の書はその典型で、死者が冥界に行くときのことが書かれています。その他に小説など、文学作品も多く残っていますが、特に「教訓文学」が優れているといわれています。

第4回 「パピルスが消えた日」 

ローマ時代になるまで、オリエント世界、地中海世界での書物はエジプトのパピルス紙でした。しかし、エジプトのパピルスの流通が一世紀ごろから少なくなり、羊皮紙や粘土板に頼らざるを得なくなったが、その時、中国から安価で作りやすく、原材料が特定されないすき紙の技術が入り、パピルスの需要がなくなってしまった。そのままパピルスはこの世界から消えてしまい、20世紀に復元するまでなくなってしまいました。

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第23章 古代エジプトの宮廷生活

古代エジプトの王の住まい、王宮。そして、そこで行われていた王族の日常生活の場は、いったいどうなっていたか。古代エジプトの宮廷での生活や政治などについて掘り下げていく。
第1回 「宮廷とは」

古代エジプトの王の住まい、王宮。そして、そこで行われていた王族の日常生活の場は、いったいどうなっていたか。

第2回 「宮廷生活」

王や貴族が日常どのような生活を行っていたのか。寝室は? 風呂は? 食事は? 衣装はどこに保管されていたか? そして、子供たちはどんな遊びをしていたのか?

第3回 「宮廷で行われていたこと」

宮廷での一番大切なことは、外国の使節の謁見であった。西アジア、オリエント、地中海、エーゲ海、リビア、ヌビア諸国など多くの国から、毎年数十の使節が土産を持ってあいさつにやってきました。

第4回 「アマルナ王宮」 

古代エジプトの王宮跡は、ほとんど現存していないが、ルクソール西岸マルカタのアメンヘテプV世王宮とテル・アル=アマルナの王宮跡がある。アマルナ王宮には王や役人が執務を行っていたところや、神殿、集会場などがあった。

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第24章 太陽の船

第1回 「太陽の船とは」

古代エジプトの人生観は、太陽神ラーとファラオが一緒に太陽の船に乗り、天空を毎日運行するという、再生・復活という思想から出た壮大なスケールのものでした。太陽の船にはこの世の船とあの世の船の2隻があります。

第2回 「いつ、どこで発見されたのか」

一隻目は1954年にエジプト人アマール=マラハによって発見されました。2隻目は日本の早稲田隊が電磁波探査計により1987年2月に発見されました。発見場所はギザ台地クフ王のピラミッド南側でした。

第3回 「何故2隻あったのか」

実際に使われたかどうかは不明ですが、1隻目はこの世で使うものとして、2隻目はあの世で使うものとして存在したと考えられます。但し、模型を造って浮かべてみると、実際に浮かびます。古代エジプトでは2元性を重要視するため、2隻造ったとみられます。

第4回 「太陽の船復原計画」 

1987年に発見され、1992年ファイバースコープで確認、マジックハンドでサンプリングし、2007年復原計画が発足しました。今その第1フェーズが終了し、第2フェーズ、ピットの石蓋あげに伴う全ての準備、機械の準備をしています。2011年3月にはピット内で見られます。

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