にっぽん歴史倶楽部 毎週土曜よる8時放送

日本史コラム

2016年12月

2016.12.14

信長の親友、近衛前久。「本能寺の変」で運命が一変!

信長の親友、近衛前久。「本能寺の変」で運命が一変!

「本能寺の変」といえば、とかく当事者である織田信長と明智光秀、徳川家康など、武将たちの行動に注目されがちですが、もうひとり、この事件によって運命を大きく左右された人物が居ました。公家の近衛前久(このえ さきひさ)です。公家らしからぬ情熱と行動力を持った人物で、上杉謙信や織田信長と盛んに交流し、斜陽であった天皇家を懸命に盛り立てようとしました。
 
公家というと、京都からあまり動かないようなイメージもありますが、前久は違いました。永禄3年(1560年)、関白という地位にありながら越後へ赴き、上杉謙信の関東平定を手助けしています。その前年、謙信が上洛した時には血判状を交わし、志をひとつにしていたのです。前久はしばらく古河(茨城県古河市)に滞在し、謙信が川中島で信玄と激突した時には「自身太刀打ちの段、比類無き次第」と、謙信の奮戦を京都へ報告しました。
 
しかし、謙信の上洛は叶わず、織田信長に先を越されました。京へ戻った前久ですが、新将軍・足利義昭とはウマが合わず、京都を追い出されたうえ、関白の地位まで剥奪されます。石山本願寺に保護されたものの失意の中にあった前久、その彼を京都へ呼び戻したのが誰あろう信長です。信長は義昭を追放し、前久を復帰させて手厚く遇しました。前久が信長に感謝したことは言うまでもありません。
 
以後、親交を深めた二人は、鷹狩りという共通の趣味を持っており、互いの成果を自慢し合うようにまでなりました。天正6年(1578年)には連れ立って鷹狩りに出たという記録もあります。信長はこれが大いに楽しかったようで、気前よく前久に1500石を加増しました。2歳違い(信長が年上)の同年代でもあり、不思議とウマが合った両者。立場を超えた親友のような間柄だったのかもしれません。
 
もちろん、政治的な活躍も見過ごせません。天正8年(1580)前久は顕如(けんにょ)を説得し、石山本願寺を無血開城に導きます。信長が10年かけても攻め落とせなかった一向一揆の総本山を開城させるという、まさに比類なき功績を挙げたのです。信長は、「天下平定の際は前久に一国を与える」という約束までしたといい、3月の武田征伐にまで前久を同行させました。朝廷の第一人者であった前久と信長は、まさに蜜月の関係にあったのです。
 
しかし、天正10年(1582)6月、運命の「本能寺の変」が起きました。これによって前久の運命も一変し、またも京都を追われて浜松へ落ち延び、徳川家康の庇護を受けるようになります。前久は、秀吉に「明智光秀をそそのかした」「本能寺の変の黒幕」と疑われ、一時は命すら危うい状況だったようです。後に許されるも、政界の第一線からは身を引き、京都・銀閣寺に隠棲。慶長17年(1612年)に77歳で亡くなるまでの余生を過ごすことになりました。秀吉の関白就任時には彼を猶子とするなど後見役にもなっていますが、政界に影響力を持つには至っていなかったようです。
 
今なお、「本能寺の変の黒幕」と疑いの目を向けられることも多い前久。信長の死後すぐに出家し、さらに信長の七回忌には「なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ」など、6首の追悼歌を残しています。はたして、それは演技だったのでしょうか? そして彼が「変」の黒幕とされたのは、いったい誰の思惑だったのでしょうか?

(C)BS-TBS

文:上永哲矢(歴史コラムニスト)

2016.12.7

人間五十年は寿命ではない? 信長が舞った「敦盛」の意味

人間五十年は寿命ではない? 信長が舞った「敦盛」の意味

今を去ること約460年前、永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は駿府を発ち、東海道を西進して尾張を目指しました。一気に尾張を併合せんとする今川軍でしたが、わずか7日後の5月19日、織田信長の軍勢に奇襲され、大将の義元が討たれて瓦解します。総兵力4万5千(『信長公記』)とも、2万5千(『日本戦史』)ともいわれる大軍が、わずか数千の信長軍に完敗を喫したのです。いうまでもなく、この戦いは信長が一躍世に出るきっかけとなりました。
 
「この時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺(ら=ほらがい)ふけ具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たち(立ち)ながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる」
 
その出陣の様子を、家臣の太田牛一は『信長公記』でそう記しています。信長が舞ったのは、当時流行していた幸若舞(こうわかまい)『敦盛』の一節。「人間」は「にんげん」とも「じんかん」とも読み、「下天」は本来の『敦盛』の詞では「化天」(けてん)と書くようです。これは仏教の説話に出てくる世界のこと。化天に住むものは8千年も生きるとされており、人の世界の50年は化天の1日にしか過ぎないといいます。
 
当の信長が49年で本能寺に散ったことから、「人間五十年」の一節は「人生は五十年に過ぎない」と解釈されます。しかし、これは上記に記した通り、「人の世の儚さ」を表したもので、寿命そのものを表しているのではありません。唄の題名でもある「敦盛」とは、平安時代に16~17歳の若さで敵に討たれた平敦盛のことであり、五十年という数字自体にはさしたる意味がないようです。いずれにしても「死」すら覚悟しての出陣であったことは確かといえるでしょう。
 
さて、信長が好んだという「敦盛」は、扇を優雅に振り回すような舞が連想されますが、実際は違ったようです。福岡県にある「幸若舞保存会」による信長の舞の復元では、扇は手に持っているものの、ほとんど動かさず、足の動きや、足を踏み鳴らすほうに重点を置く地味な舞だったようです。優雅な舞よりも、シンプルで直線的な動きは、決死の戦いに臨むにあたって気分を高揚させるには、よりふさわしいものだったのではないでしょうか。

写真:愛知県清須市 清洲公園にある織田信長 銅像  
   撮影◎上永哲矢

文:上永哲矢(歴史コラムニスト)

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